石田三成一族

 石田三成は永禄2年(1559年)に現在の滋賀県長浜市石田町に土豪の子として生を受けました。若かりし三成公は、当時、織田信長の家臣として長浜城主を任されていた豊臣秀吉と出会います。
この二人の出会いは「三献の茶」という逸話として残っております。
 
 ある日、鷹狩りに訪れた秀吉は、喉が渇いたので観音寺で休憩をしました。そこに偶然居合わせた三成がお茶を差し出しました。一杯目は大きな器にぬるめのお茶を差し出し、秀吉は一気にそれを飲み干しました。さらに茶を欲した秀吉に対し、一杯目より湯の量を少なくし、先ほどより少し温かいお茶を差し出しました。さらに三杯目を欲すると、次は小さな器に熱いお茶を入れて差し出しました。
 これが最初から熱いお茶を出していれば、喉が渇いた秀吉はお茶を味わうことができなかったはずです。喉を潤しつつ、お茶の味も味わえるようにこの順番で出したわけですね。
 
 この三成の気配りには、秀吉も大変感心し、三成は家臣として招き入れられます。

 
 
 
淀川が大氾濫を起こし急遽治水工事を命じられた三成は、秀吉に 「米俵をお借りしたい」と申し出ました。 「米俵をなんにするのだ?」 「住民にいま から土俵をつくれといっても時間がありません。そこで米俵をかわりに使います」 まわりにいた家臣たちは、『大切な米俵を土俵のかわりに使う などというのは、あいつはバカではないのか?』  と眼と眼で語り合った。 ところが秀吉は 「面白い、 米俵を貸してやる。 必要なだけ持っていけ」 と応じた。
 そして洪水の被害を受けた村の住民に告げた。
「この近くに、城から米俵を持ってきた。それを使って、川の決壊箇所を防げ」
と言った。住民たちはびっくりした。
「米俵で水を防ぐのですか」
「そうだ。丈夫な土俵を作って持ってきたら、米俵と交換してやる」
住民たちが半信半疑ながら土俵を作って持っていくと、 三成は約束どおり土俵一俵と米俵一俵を交換した。しかし土 俵のつくり方がいい加減で、役に立たないようなものは 「つくり直してこい」と 命じた。
 本当に米俵がもらえたので、住民たちは三成に感謝した。ところが三成は「これは私の考えではなく、あの城におられるご城主の羽柴秀吉様がお命じになったことだ。礼をいうなら、城にいって羽柴様にいえ」と告げたそうです。
 
 
 
有能でありながら、部下としての働きは、すべて主人の秀吉に捧げる
 
そんな三成公の生き方が透けて見える逸話です。
 
三成公の旗印
※一人が万民のために、万民は一人のために尽くせば、天下の人々は幸福(吉)になれる 

 

 豊臣秀吉の死後、秀吉の遺志を守るべく、関ケ原の合戦に挑んだ三成公でしたが、徳川家康率いる東軍に敗れ、旧暦十月一日に、六条河原で斬首され41歳でこの世を去りました。
 
 三成公には子がおり、長男である重家は徳川家康に助命を嘆願し、壽聖院の開山である伯蒲禅師に弟子入りし、出家しました。後に済院宗享と名を変え、壽聖院の三世の住職となっています。
 
 敗戦後、壽聖院は一度全面解体されましたが、宗享は龍安寺の末寺の材を集めて再建します。こころざし半ばで、若くしてこの世を去った父三成に対し、宗享は104歳まで生きたと言われております。
 
 不変の美を表現する庭の前で、彼は何を感じ、どのような思いで長年の人生を送ったのでしょうか。
 
宗享禅師(長男 重家)

 壽聖院では、石田三成の父正継の肖像画、母瑞岳院の肖像画(大徳寺三玄院様所蔵の複製)、石田三成の肖像画を所蔵しております。
 
 特に正継は当時の土佐派により描かれた貴重な肖像画であり、平成24年5月に重要文化財に指定され、現在は大阪市立美術館に寄託しております。
 
※写真の無断コピー、転載を禁じます。

三成父 石田正継
三成母 瑞岳院(複製)
石田三成公


 
 三代目住職宗享禅師により三成公の遺髪を収めた供養塔が建立され、一族9人が壽聖院の静かな敷地内で安らかに眠られております。
 
 ※供養塔へのお参りは予約必須です。事前に必ず電話かメールでお問い合わせください。