壽聖院への拝観、三成公のお墓参りをご希望の方は必ず事前にご予約ください。
 
拝観料 1,000円(住職案内)
 
電話075-462-3905 もしくはお問い合わせフォームからご予約をお願いいたします。

 当院は慶長4年(1599年)に石田三成が、その父である正継公の菩提寺として、当時学徳高き伯蒲禅師を院主に迎え創建したものです。 創建当時の壽聖院は、今日の敷地の四倍を有し、周囲には堀と土塀をめぐらし、本堂は壮大を究めました。客殿の軒先は金箔瓦で葺きあげ、さながら石田家京都屋敷の観を呈するものであったと伝えられています。
 
 しかし、慶長5年(1600年)関ヶ原の戦いにて、三成公率いる西軍は敗れてしまい、当院も縮小を余儀なくされます。境内はもとの四分の一の大きさとなり、壽聖院の北門であった門は妙心寺全体の北門として現在は利用され、当時の勝手口が現在壽聖院の正門として残るのみです。

 一度全て取り壊された建物はしばらくして建て直されました。また、本堂の前に広がる庭園は絵師狩野永徳が設計したと伝わり、その景観は桃山時代より変わっておりません。庭園にある瓢箪池は、三成公の指示により、主君の豊臣秀吉公の戦勝の瓢箪印をモチーフに造られています。
 
2017年7月より2020年2月まで、本堂の大改修工事を行った際に出てきた当時の棟札には、「寛永8年(1631年)に第3世住職済院宗享により壽聖院が再興されたことを祝す」と記されています。


本堂

客殿

伝 狩野永徳の庭


石田正継像

石田三成書状

 壽聖院では、三成公の父である正継公を描いた石田正継像をはじめとした文化財を所蔵しています。石田正継像は土佐光信もしくはその弟子により描かれたとされ、平成24年5月に国の重要文化財として指定されました。経年の劣化により吊るすのも難しい状態でしたが、2022年12月よりクラウドファンディングを行い、皆様のご支援のおかげで現在修復作業に入っております。
 
 また、宗亨禅師(長男重家)が三成にかかわる歴史を記した『霊牌日鑑』も当時の貴重な資料として伝わっています。
 
 他にも、三成公が朝鮮の役の時に当院住職 伯蒲禅師に送った袈裟とその書状、壽聖院庭園を手掛けた狩野永徳屏風画や、海北友松の描いた「猿回し」の絵など400年の歴史を感じさせる様々な文化財がございます。
 
※写真の無断コピー、転載を禁じます。
 

妙心寺について

 当院は臨済宗妙心寺派に属し、大本山妙心寺の塔頭寺院の一つです。

 妙心寺は京都市右京区花園にあり、1337年に95代花園法皇の勅願によって無相大師を開山とし、創建されたものです。境内の広さは13万坪を有し、七堂伽藍は整然としており、当院をはじめ46ヶ寺もの塔頭寺院が存在します。

 また、寺全体が史跡に指定され、その建築様式は勿論のこと庭園・美術品の多くが国宝、重要文化財に属しております。まさに京都随一の禅刹といえるでしょう。
 

臨済宗について

 臨済宗は、中国に起源を持ち、発展しました。日本には鎌倉時代に栄西禅師が最初にもたらしたと言われております。臨済宗の他に、曹洞宗、黄檗宗の三つをまとめて、日本では禅宗と呼ばれております。
 
 お釈迦様の正しい教え(正法)を受け継がれた達磨大師が禅宗の祖師であり、その後、臨済禅師へと受け継がれ、臨済宗が成立しました。臨済宗が日本に渡って様々な法系が成立していく中で、現在、十四派の本山が存在し、当院が属する妙心寺派もその一つです。
 
 お釈迦様から現在に至るまで受け継がれた一流の正法を教えとし、我々人間誰しもが本来そなわっている、尊厳で純粋な人間性(仏性)を自覚するのが我々の宗旨です。自覚をするために、坐禅や公案、読経、作務などの修行をおこないます。

 石田三成は永禄2年(1559年)に現在の滋賀県長浜市石田町に土豪の子として生を受けました。若かりし三成公は、当時、織田信長の家臣として長浜城主を任されていた豊臣秀吉と出会います。
この二人の出会いは「三献の茶」という逸話として残っております。

 ある日、鷹狩りに訪れた秀吉は、喉が渇いたので観音寺で休憩をしました。そこに偶然居合わせた三成がお茶を差し出しました。一杯目は大きな器にぬるめのお茶を差し出し、秀吉は一気にそれを飲み干しました。さらに茶を欲した秀吉に対し、一杯目より湯の量を少なくし、先ほどより少し温かいお茶を差し出しました。さらに三杯目を欲すると、次は小さな器に熱いお茶を入れて差し出しました。
 これが最初から熱いお茶を出していれば、喉が渇いた秀吉はお茶を味わうことができなかったはず。喉を潤しつつ、お茶の味も味わえるようにこの順番で出したということですね。

 この三成の気配りには、秀吉も大変感心し、三成は家臣として招き入れられることになりました。

淀川が大氾濫を起こし急遽治水工事を命じられた三成は、秀吉に 「米俵をお借りしたい」と申し出ました。 「米俵をなんにするのだ?」 「住民にいま から土俵をつくれといっても時間がありません。そこで米俵をかわりに使います」 まわりにいた家臣たちは、『大切な米俵を土俵のかわりに使う などというのは、あいつはバカではないのか?』 と眼と眼で語り合った。 ところが秀吉は 「面白い、 米俵を貸してやる。 必要なだけ持っていけ」 と応じた。
そして洪水の被害を受けた村の住民に告げた。
「この近くに、城から米俵を持ってきた。それを使って、川の決壊箇所を防げ」
と言った。住民たちはびっくりした。
「米俵で水を防ぐのですか」
「そうだ。丈夫な土俵を作って持ってきたら、米俵と交換してやる」

住人たちが土俵を持ってくると三成は約束どおり米俵一俵と交換した。本当に米俵がもらえたので、住民たちは三成に感謝した。ところが三成は「これは私の考えではなく、あの城におられるご城主の羽柴秀吉様がお命じになったことだ。礼をいうなら、城にいって羽柴様にいえ」と告げたそうです。

有能でありながら、部下としての働きは、すべて主人の秀吉に捧げる

そんな三成公の生き方が透けて見える逸話です。

三成公の旗印
※「一人が万民のために、万民は一人のために尽くせば、天下の人々は幸福(吉)になれる」という意味をこめたとも言われています

 豊臣秀吉の死後、秀吉の遺志を守るべく、関ケ原の合戦に挑んだ三成公でしたが、徳川家康率いる東軍に敗れ、旧暦十月一日に、六条河原で斬首され41歳でこの世を去りました。

 三成公には子がおり、長男である重家は徳川家康に助命を嘆願し、壽聖院の開山である伯蒲禅師に弟子入りし、出家しました。後に済院宗亨と名を変え、壽聖院の三世の住職となっています。

 敗戦後、壽聖院は一度全面解体されましたが、宗亨は龍安寺の末寺の材を集めて再建します。志半ばで、若くしてこの世を去った父三成に対し、宗享は104歳まで生きたと言われております。

 不変の美を表現する庭の前で、彼は何を感じ、どのような思いで長年の人生を送ったのでしょうか。

三代目住職宗享禅師により三成公の遺髪を収めた供養塔が建立され、一族9人が壽聖院の静かな敷地内で安らかに眠られております。
 
※供養塔へのお参りは予約必須です。事前に必ず電話かメールでお問い合わせください。

クラファン周知のためにまとめた、当院開基の石田正継公のすごいところです

三成パパはここがすごい①
肖像画に壽聖院初代住職が書いたのが「才は文武を兼ね、聖人賢人の教えを慕い、花月を愛して万葉集を吟じた」である。戦国武将なのにめちゃめちゃ風流。さすが三成パパ。

三成パパはここがすごい②
お寺から60巻の書籍を借りてムッスコ三成に見せてやろうと思うも、見せる機会なくて返却しました。多分ウキウキだったでしょうに三成公は忙しすぎた模様。

三成パパはここがすごい③
代官として堺に赴任。当時秀吉もお気に入りだった塩風呂を大衆が利用できるよう掟書を出し、最後には「あと俺の家臣は絶対使っちゃだめ」とした。代官の部下の特権禁止。厳しく、そして民に優しい。この親にしてこの子ありなのです。


三成パパはここがすごい④
三成の善政として知られる13か条の掟書。不作のときは年貢少なくていいよ、とか直訴も許すとか超民思い。当時実際の治政は正継が行っていたため、この掟書はパパが作った説まである。彼らの中には常に大一大万大吉の精神があったのでしょう。


三成パパはここがすごい⑤
関ケ原で三成が負け、押し寄せる東軍15000に佐和山城を守るは2800。最優先で領民を逃し、石田家一族の首と引き換えに兵士たち全員を助けるよう交渉。交渉結果を知らなかった(?)武将に攻め入られ、最後に残したのが「内府も念入りなことよ…」 これは戦国武将ですわ…

三成パパはここがすごい⑥
文書に印を押すときも、非常に珍しい藍の印を押したりしている。おしゃれさんである。